“大魔神”ここに誕生す!!


 大映京都撮影所には、時代劇と特撮撮影を合体させた“特撮時代劇”ともいうべき不思議な作品群の流れが昔からあった。
 昭和271952)年からはじまる「西遊記」シリーズ3部作<2作目の『大あばれ孫悟空』(監督:加戸敏)では、昭和27年、東洋現像所(現・イマジカ)に入った最新オプチカル・プリンターを使い、20数カットの合成シーンを作りだした>、昭和281953)年の溝口健二監督の『雨月物語』、『怪談佐賀屋敷』、『怪猫有馬御殿』の荒井良平監督の“怪猫映画”(大映は、戦前の“新興キネマ”のころから、怪猫ものは、十八番であった。『怪猫有馬御殿』では、オプチカル・プリンターで斬られた怪猫の女・入江たか子の首を空へ飛ばし、敵の首に噛みつかせる合成スペクタクルをみせた)、昭和331958)年の渡辺邦男監督の“元寇の役”を描く、特撮スペクタクル『日蓮と蒙古大襲来』(25メートル×31メートルの特撮用大プールが4千万円で作られ、オープン撮影で、台風で沈む蒙古軍の船団のカラー特撮が描かれた)、実物大の大蜘蛛、牛鬼が現れる伝奇タッチが冴える昭和351960)年の田中徳三監督の『大江山酒天童子』、日本初の70ミリ映画でマットアート合成、アニメ合成、ミニチュア特撮とふんだんにスペクタクル・シーンが続出する昭和361961)年の三隅研次監督の『釈迦』、日本版『白鯨』を狙う巨大人喰い鯨とのスペクタクル対決を描く昭和371962)年の田中徳三監督の『鯨神』(特撮だけ京都撮影所、本編は東京撮影所)……と、これだけの作品が続出したのである。ケレンを要するというか、映画らしい映画として特撮も駆使するスペクタクル性は、大映時代劇のひとつの流れとして脈々と生き続けていたのである。
 しかも、不思議なのは、大映京都撮影所は、専門の特殊技術課をつくらなかったことで、本編のスタッフ編成でこれだけの作品を撮りあげていたのだ。特別のセクションがなくても、本編のスタッフでいける----この自信と不敵さにあふれる活動屋魂が本編とマッチングした特撮をつくり出した。この伝統なくして、『大魔神』の企画と成功はありえなかったことは確実であろう。
 その大映京都のなかで、特撮指向の動きは、少しずつだが、着実に始まっていた。『日蓮と蒙古大襲来』で、理科系出身だったために特撮の助監督となった黒田義之助監督は、続いて『釈迦』でも特撮パートの助監督として参加した。そして、昭和391964)年、大映京都は、アメリカのハロルド・ヘクト・プロとの合作映画『あしやからの飛行』(監督:マイケル・アンダーソン)の特撮パートを撮影することとなった。この特撮スタッフが特撮監督:黒田義之、撮影:森田富士郎、照明:美間博というメンバーで、美術監督は、ベテラン渡辺竹三郎だったが、海難救助隊の特撮をブルーバック撮影で描き出していった。アメリカ映画であるため、ふんだんにフィルムで撮影することができ、森田富士郎キャメラマンは、ブルーバック合成を260カット、10万フィート撮影することができた。この作品でのテストと手ごたえで、この撮影チームは、ブルーバック合成のノウハウを手中にするのである。当時の日本映画が普通8千フィート、16千フィートがフィルム使用量の上限であったことを思うと、この『あしやからの飛行』の特撮シーンは、実戦で勉強させてもらったようなものであった。仕上がりもよく、大映京都撮影所の製作側は、自社の特撮の技術力に大きな自信を持ったのである。特撮すら自在にこなす本編スタッフに、特撮の場数を踏んできた中心スタッフになる若手の技術者が成長してきたわけである。
 こうした中、昭和401965)年、大映京都撮影所・所長に鈴木炤成元企画部長が就任した。鈴木企画部長時代、企画副部長だった奥田久司も企画者(プロデューサー)となり、新企画が模索された。大映京都の特撮を使う新企画----それが『大魔神』であった。奥田久司プロデューサーを呼んだ鈴木炤成所長は、
「昔、フランスのデュビビエという監督の『巨人ゴーレム』(36)という作品があったが、ああいう方法の映画を作ろうじゃないか。それを日本の民話調に移しかえよう。ついては、柳田国男さんの本も勉強しよう」
 と、提案し、青年時代から小説家志望だった奥田久司プロデューサーは、『大魔神』の企画を練りあげていった。この“『巨人ゴーレム』をベースにした特撮時代劇をつくろう”という企画が正式な企画書として、大映へ提出されたのは、昭和4011月第1週に、本社で開かれた第124回の企画会議であった。
 題名は、『大魔神現わる』。提案者は、“奥田企画者”と記され、以下がその全文である。

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 京都撮影所の特撮技術を、最も効果的に活用した、異色ある特撮企画を、年に一、二本製作致したく、その第一回として、本企画を提案致します。これは昭和十二年七月公開されたフランス映画「巨人ゴーレム」にヒントを得、京都の特殊技術を考慮して立案したもので、ゴーレムに代る巨像としては日本古代の埴輪(はにわ)の武神像を型取った大石像を想定しております。脚本化の際は、事前に特撮関係者と緊密なる検討を行い、その結果に基ずいて各種の試みを網羅したいと思います。観客対象は御家族週間の広汎なる階層に呼びかけ、ストーリィは単純簡潔、テーマは復讐と勧善懲悪に絞ります。

 戦国乱世の時代、丹波の国には幾多の豪族が割拠していた。山中城に拠る花房家もそのひとりであった。当主・忠清は、流れ者の大館左馬之助の才腕を認め、これを召抱えて重く用いたが、大館は飽くなき野望に燃える男で、ひそかに徒党を組み、突如、忠清を殺害して城を奪った。
 忠清の一子・忠文と妹・小笹は、家臣・猿丸小源太に守られて、危うく落ちのび、狼谷の山中に住む巫女・信夫(しのぶ)のもとへかくまわれた。
 そして、七年----忠文二十二歳、小笹十六歳となった。兄妹は、世をしのびつつ、苦難に耐え、時のいたるのを待った。
 狼谷は、山中城のすぐ後方にそびえる断崖絶壁の山岳地帯で、古くより魔神が棲む、と伝えられ、里人はもとより、武士すら恐れて近づかぬ人外の秘境である。いつのころからか、この魔神を封ずるため、山頂の大岩壁に埴輪の武神像を型取った巨像が彫りつけられていたが、年とともに、その巨像も全身に土に埋もれ、今は、わずかに首だけが地上に露出しているありさまであった。そして、この巨像には----里人のうえに災難が襲った時、必ずこれを防いで守ってくれる、といういい伝えがあり、救いを求める時の特別の呪文は、山中に住んで、ただひとり、この巨像を守る巫女だけに語りつがれていた。
 一方、主君を殺して城主となった大館左馬之助は、その後、“山中城の悪鬼”と、仇名されて、近隣に恐れられたが、当人は、そのような悪名を一笑に付し、戦国乱世の時代には、ただ弱肉強食、勝つためにはいかなる手段も選ばぬ、という非情の信念に徹していた。彼は丹波一国を平定し、さらに、隣国をも併呑して、一刻も早く京都に乗り込み、天下に号令したい、という大いなる夢に取り憑かれていた。したがって、領民を酷使し、重税を課し、しばしば、隣国を侵して掠奪さえ行った。領民たちはこの暴君に対し、今さらのごとく、ありし日の花房家の徳を慕った。

 そのころ、忠文は、領内に潜む花房家遺臣たちと連絡を取るため、家臣・猿丸小源太を城下へ潜入させたが、不運にも大館方に発見されてとらわれの身となった。大館は、彼を囮にして忠文をおびき出そうと、三日の間、小源太を宙吊りにし、忠文が名乗り出ぬなら、これを斬る、と布告した。それを知った忠文は、小笹や信夫にも行き先を告げず、単身、城下へおもむき、ようやくにして小源太を助けることに成功したが、逆に、忠文自身が敵の手に捕らわれ、その命は風前の灯とみられた。
 巫女・信夫は、それを知って直ちに山をおり、大館に対して、忠文を斬れば、狼谷の武神象の神罰が下る、と諭し、その助命を嘆願した。しかるに、大館は、「武神象に救いを求める呪文を知るは、そなたただひとり。そちさえ殺せば武神象とて恐ろしうはない」と、せせら笑い、彼女を捕らえて火あぶりの惨刑に処した。
 同時に、二十人の武士に、狼谷の武神象を直ちに破壊せよ、と命じた。武士たちは。即刻、狼谷へ登ったが、突如、暴風雷鳴が吹き荒れて、山道はくずれ落ち、彼らはことごとく断崖から転落して非業の最期をとげた。
 花房家の遺臣たちは、小源太を中心に集まり、忠文奪還と花房家再興のためにたとうとしたが、その直前に大館方に包囲され、多くの遺臣が斬り殺された。
 大館は、この機に忠文を殺し、同時に残る遺臣たちをも一網打尽に壊滅するため、狼谷の真下にある処刑場に竹矢来をめぐらし、衆人環視のまっただ中で、忠文を磔にかけようとした。
 その前夜----小笹の胸は、はり裂けんばかり。信夫は殺され、兄もまた落命寸前にある。彼女は初めて武神像にひざまずき、兄と家中一門の命を助け給え、と祈った。彼女は祈りの作法も、救いを求める特別の呪文も知らなかったが、ただ、はらはらと、美しい涙を流した。神は、この乙女の祈りを聞きとどけられたのであろうか?
 狼の遠吠えと共に、突如、大地は大音響をあげて崩れ、土中に埋もれた武神像の巨大な全身は、徐々に地上に現れはじめた。とみる間に、一歩、一歩、巨像は前方に向かって力強く足を踏み出したではないか!
 刑場では処刑寸前、猿丸小源太たちの遺臣が忠文奪還のために斬り込んだが、衆寡適せず、これも危うしとみえた刹那、にわかに嵐は吹きつのり、狼谷の一角は、山津波のごとく崩れ出した。
 群衆の驚愕、恐怖、混乱、狼狽の中に、やがて、巨像は処刑場に出現し、大館の家臣たちを次々に踏み潰してゆく----
 しかも大館が、かなわじ、と城内へ逃げ込むや、その後を追って城門を破り、天守閣を破壊し、ついに、大館左馬之助を追いつめて命を奪った。
 しかるに、この巨像の魂にも、ついに、魔神の生き霊が乗り移ったのであろうか----今度は、正邪の観念を忘れたかのごとく、町に現れてみさかいもなく暴れ出したのである。忠文が驚いて取り鎮めに向かったが、鎧袖一触、たちまち吹き飛ばされて、いかんともすることができない。
 この時、小笹は決心して、怒れる巨像の前に走り寄った。巨像に救いを求めたのは自分である。一切の責任は私にある! 私はその責任を負うべきである! かくして、小笹は、再び巨像の前にひざまずき、祈った。「私を踏み殺して、何卒、怒りをお鎮め下さい!」。彼女の両眼からは、またしても、美しい涙が流れ落ちた!
 巨像の足は、ピタリと止まった。やがて、大音響とともに、その全身は粉々に崩れ落ちていった。

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 タイトルを『大魔神』と変えて、企画は採用となった。
 昭和40年11月18日、永田秀雄専務、鈴木炤成京都撮影所所長、脚本の吉田哲郎、森田富士郎キャメラマン、安田公義監督、黒田義之助監督、奥田久司プロデューサーの打ち合わせが行われ、ストーリーがさらにつめられた。
 その打ち合わせの際の奥田プロデューサーのメモを引用させてもらうと、
“別班は作らない”、“本編にも特撮技法を”、“巨人と同時に自然現象も見せる”、“武神(三種)1丈2尺→(実際以上に見せる)、6尺(縫いぐるみ)、3尺(ミニチュア)”、“撮影----夕景でも明るめに”、“音に注意”、“高田美和”、“足のアップを入れること”、“動きはロボット的”
 と、提案が具体的で、実に興味深い。この打ち合わせの段階で、大魔神の顔が変わるイメージも決定した。さらに、内藤昭美術監督から、額にクサビを打ち込むアイデアとブルー・グリーンの顔色のアイデアが出され、大魔神はみるみる実体化していった。
 11月中に脚本第1稿、12月10日、決定稿が完成。12月中に安田公義監督の絵コンテ脱稿の予定で、スケジュールは進んでいった。
 平行して決定されたデザインにより、ぬいぐるみと4.5メートルの大魔神が制作された。造形を担当したのは、『ウルトラQ』(66/TBS)で、ガラモン、ペギラ、カネゴンを造型していた彫刻家の高山良策で、昭和41(1966)年1月6日に京都入りし、4月9日の撮影アップ寸前までの3ヶ月間、大映京都撮影所で、大魔神の造型が精力的に行われた。
 撮影開始のクランク・インは、昭和41年2月3日、クランク・アップは、4月10日、初号4月12日、テストも入れれば、3カ月を越える撮影で、『大魔神』は完成した。『ガメラ対バルゴン』(監督:田中重雄、特撮監督:湯浅憲明)との2本立ての興業は大ヒットとなり、当初、奥田プロデューサーの考えでは、年に1本で考えていたシリーズ化は、4カ月後の夏のお盆公開に向けて、映画館主の「続編をつくってほしい」という声に押されて、GOサインが出た。「大魔神」シリーズの始まりであった。

【初出 大映・パイオニアLDC『大魔神全集』LD-BOX解説書 1990年】