『ゴジラ99の真実』番外篇

★『ゴジラ』の燃える街並みは外に建てられていた!

 ゴジラの吐く放射能火炎によって、紅蓮の炎に包まれて、燃えあがる東京の街並み。モノクロの映画なのに、紅蓮の赤い炎を見た記憶があって、1990年代、川北紘一特技監督が平成「ゴジラ」シリーズの一編の予告編に、モノクロの『ゴジラ』(54)の炎上シーンをCGでカラーにして、赤い炎の中に立つゴジラをまさに実現させた気持ちも実によくわかるのだ。
 実は、『ゴジラ』の燃えあがる街並みやビル街は、ステージの中に建てられたものではなく、ステージの外に建てられたものだった。『ゴジラ』のオープン撮影のセット数は、東宝特殊美術班の記録によると、28セットで、次回作の『ゴジラの逆襲』(55)のオープンセットの数が10セットと比べても、いかに炎上させるセットを重視したか、わかるだろう。
『ゴジラ』の特撮セットは、5番ステージと6番ステージが多かったが、6番ステージの外の壁をホリゾントに見立てて、エアブラシで薄く雲を描き、その手前に品川の低い街並みが並べて建てられ、ゴジラが横向きに睨みつけるように立ち、その背中のトゲも光らせ、アニメーションの放射能火炎を全身ではじめて見せ、爆発するように点火。燃えあがる炎と照明ライトでしっかりと浮かびあがらせ、オープン撮影が風を巻き、ゴジラ迫真の名シーンを生み出したのだ!


★電車となって、突進する有川貞昌キャメラマン

 ゴジラが品川に上陸して、高圧電線を放射能火炎で溶かし、住宅地へと進んでいく。東海道線が通る八ツ山陸橋へゴジラが進んでいき、東京駅へと進んでいた東海道線の急行電車は何も知らず、八ツ山陸橋に迫っていた。『シン・ゴジラ』(2016)で庵野秀明監督が品川のこの陸橋を出した元になった名シーンだ。
 乗客の運命はどうなるのだろうか?
 人間の見たアオリ視点を強調するため、オープンセットにこの電車が上を通る陸橋と国道の通るもうひとつの八ツ山陸橋(ダブル陸橋)と架けられた架線のセットは作られ、右側からゴジラは何も気づかずに、悠然と進んでいく。すると、急行電車の運転手の目線で、前方の陸橋を越えるあたりにゴジラの巨大な足が入ってきて、慌ててブレーキ・レバーを引く運転手!! この運転手の目線の映像は、特撮班の有川貞昌キャメラマンが撮った映像で、線路の上に車輪をつけた平台を載せ、その上に毛布を敷いて、有川キャメラマンが腹ばいになり、カメラを前に向け、「よしっ、行こう!」と、操演の中代文雄技師に合図を送り、3人がかりで有川キャメラマンに触らぬように台車を押し、何メートルも走り込んでいった映像なのだ。「もう1回、ゴジラ、足をもっと出してーっ!」と、円谷英二の声が響く。このカットは、『ゴジラ』を代表する魅力的な特撮カットのひとつとなった。


★『ハワイ・マレー沖海戦』の血が燃えた船舶ミニチュア

『ゴジラ』(54)は、映画の冒頭、突然、燃えあがって沈没する貨物船“栄光丸”、そして、その遭難した船員を助ける大戸島の漁船、さらに、東京湾でダンス・パーティーを甲板で開いていて、ゴジラが近くの海面に現れて、お客が避難しようとなって、大パニックになる遊覧船の“橘丸”。この橘丸は、実在した遊覧船で、渡辺明特撮美術監督は、正確に実船をリサーチして、ミニチュアの図面を描きあげている(栄光丸は、美術助手の井上泰幸が四面図を引いた)。
 では、船のミニチュアは誰が作りあげたのか? 東宝の大道具には、戦前の『ハワイ・マレー沖海戦』(42)で、真珠湾(パール・ハーバー)のアメリカ軍艦を建造した器用な職人がそのまま戦後も仕事を続けていて、稲垣浩監督の『海賊船』(51)の大型船舶モデルや本多猪四郎監督の『港へ来た男』(52)でも、船(捕鯨船)の前半分を大道具で制作。特に、栄光丸と橘丸は、見事な出来で、映画の前半部のリアリティを守り抜いた。映画のラストで、泡立つ海に翻弄される海上保安庁の船のミニチュアも実際の保安庁の船の映像を前後して編集されても、しっかりとサスペンスを守り抜いていた。東宝大道具も船でいい仕事(グッド・ジョブ)をしていたのだ。


★ゴジラの放射能火炎はどうやって生まれたのか?

『ゴジラ』(54)は、はじめてドラマ・シーンと特撮シーンが極めて複雑に入れ込んで編集され、本編(ドラマ)班の本多猪四郎のスタッフと特撮班の円谷英二のスタッフの協力なくして、実現することは不可能だった。
 のちに、東宝副社長になり、東宝撮影所の企画・製作のプロデューサーを束ねる森岩雄ゼネラル・プロデューサーの提案で、前年の『太平洋の鷲』(53)で採用した、主要カットをイラストにするハリウッド流のピクトリアル・スケッチが使われ、特撮のほうの絵は、渡辺明特撮美術監督の指揮の下に、武蔵野美術大学のアルバイトも加わって、34人で描き起こされた。そのイラストでも、背のトゲが妖しく光りながら、口から霧状の放射能火炎のイメージは描かれていた。
 では、どういう形で撮影されたのか? 円谷特撮研究所で昭和231948)年ころから、有川貞昌と共に撮影に参加していた国分正一キャメラマン、合成担当の幸隆生技師が、アニメ映画のドラゴンの炎を研究(1954年夏の映画館で上映される子供映画会の漫画映画を見続けた、という)、エアブラシで原画を描き、リスマスクを作って合成し、あと、スプレーの霧状の水を上半身だけのギニョール(人形)の口から吐いて(ライトを当てて、水の霧を浮かびあがらせた)、力強い放射能火炎のイメージをビジュアル化していた。


★『ゴジラ』の空前の特撮カット数!

『ゴジラ』(54)は、全カットが888カットで、特撮ミニチュア、マットアート、生合成の実景+ミニチュアの特撮カットは263カットと、約3分の1が特撮シーンと、ここまで本編(人間の芝居部分)のドラマと特撮が入念にモンタ−ジュされた劇場映画は、日本初だった。
 東京の芝浦海岸から品川へ上陸したゴジラは、品川の操車場、田町駅から京浜国道沿いに、札の辻、新橋、松屋の通りを抜けて、銀座、服部時計塔から有楽町の大ガードへ、東京都庁、尾張町交差点から晴海通りへ、永田町の国会議事堂、平河町の日本テレビのTV塔、浅草、隅田川の勝鬨橋と、実景と特撮ミニチュアの中に立つゴジラ、マットアート、合成シーン、燃えあがる街並み(隅田川沿いの浅草や両国の情景は、TVの中のニュースとして、燃える町をクールに描いてみせる)を編集した。本多猪四郎監督と特技の円谷英二との協力システムは、本格的な第1作である『ゴジラ』で、その突破口と方法論を確立しており、その後のカラー映画『空の大怪獣ラドン』(56)、カラーワイド映画『地球防衛軍』(57)、パースペクタ立体音響のステレオ録音となった『モスラ』(61)と、1作ごとに精緻さとグレードをあげて、“名コンビ”と言われるようになっていったのだ。


★ゴジラの眼が時々光って見えるのはなぜ?

『ゴジラ』(54)に現れるゴジラの映像を見ていると、大戸島にはじめて姿を見せて、山根恵美子(河内桃子)に手を伸ばそうとして、恵美子が悲鳴をあげるシーンや夜に上陸した東京アタック・シーンで、人間を見下ろすゴジラの目線がはっきり出ていて、服部時計塔に吠えかかるシーンや暴れる何カットかで、眼がギラリと光るのだ。
 後年の「ゴジラ」シリーズでは、眼の中に電球をしかけ、まさにゴジラの眼が光っているわけだが、実は、『ゴジラ』の初代ゴジラは、眼に電球を仕込んでいたわけではなかった。
 では、なぜ光って見えるのか?
 黒澤明監督の映画でも照明監督をつとめる岸田九一郎照明監督が「ゴジラの全身ではなく、パートライトで、ゴジラの身体が部分、部分、闇の中に見えるわけだが、その眼だけは手持ちのキャッチ・ライトで追いかけて、ゴジラの表情が見えるようにする。夜の東京アタックをするゴジラは、そうやって照明設計するつもりだ」という岸田プランを聞いて、渡辺明特技美術監督は、「これで、この映画は成功する、と確信した。あの眼を追ってくれたキャッチ・ライトがゴジラの表情を出してくれたんだ」と、語っていた。


★新吉少年は、誰のために……そして、尾形秀人は。

 大戸島の沈没した漁船のただひとりの生存者・政治(まさじ、山本廉)は、島へ流れ着いた時、「や、やられただ……」と呟き、失神する。巨大な生き物が海の中にいて、船を海へ引きずり込んだ、というのだ。取材した新聞記者の萩原はとても信じられず、「だから、俺は話すのが嫌だと言ったんだ。誰も信じやしねぇ」と、吐き捨てるように去る政治。その政治と母親は、大戸島に嵐と共に上陸した巨大な何かに家ごと潰されて、亡くなってしまう。
 南海サルベージの尾形は、母親と兄を亡くし、ひとりぼっちになった新吉に同情して、「うちの会社で書生として働きながら、学校へ行かないか?」と誘った。大戸島にはもう悲しい思い出しかない新吉は、尾形を頼り、東京の尾形の家に同居することになった。尾形は、身元の保証人として、山根恭平に学校の書類、その添え書きも頼んだ。

 描かれていないが、尾形は明らかに天涯孤独な境遇で、空襲によって両親が死んだのか、10年前の自分の姿を新吉に見たのではないか。そして、10年前、南海サルベージの船会社の社長が彼の面倒を見てくれたのじゃないか……。「俺が役にたつ順番だ」と思っているのか、語られない尾形の経歴はどうなのだろう。ゴジラの被害に倒れた人々へ寄せる尾形と恵美子の深い同情と共感、ゴジラへの怒り。思えば、家族の誰かを空襲や戦争で失っていた日本人のほとんどの人と同じ、喪失感のある平凡な境涯の若者であった。山根恭平をはっきり描くために用意された主人公であった。

【2014年、徳間書店刊『怪獣博士の白熱講座 ゴジラ99の真実(ホント)』の企画時に書かれた未発表原稿】