特撮の神様 円谷英二と円谷プロダクション

円谷英二は、映画の大スクリーンに特撮の夢を描いてみせた。
若いスタッフの熱意とアイデアがさらに特撮をいかしていく。
円谷プロは、英二のもうひとつの大きな夢の王国となっていった!

 円谷英二は、東宝の特技監督として、『ゴジラ』(監督:本多猪四郎)昭和291954)年や『地球防衛軍』(監督:本多猪四郎)昭和321957)年、『日本誕生』(監督:稲垣浩)昭和341959)年、『キングコング対ゴジラ』(監督:本多猪四郎)昭和371962)年と、数々の特撮映画、SF映画、スペクタクル映画、戦争映画、怪獣映画の特撮シーンを演出してきた。
 昭和291954)年の『ゴジラ』から、昭和451970)年125日に68歳で亡くなるまで、16年しか経っていないのか、とそのやり遂げた作品の数々の特撮シーンを思い返すと、円谷英二という映像作家のイメージ力と魅力にひきつけられてしまう。
 思えば、昭和121937)年に、東宝の特殊技術課の初代課長に就任して以来、システム的にも、人材的にも未熟だった日本の特殊撮影の方法論、発想法、設計、スタッフ・ワーク、機材作りを一から編み直し、技術的なチャレンジをし続けてきたのである。それは実は、キャメラマン時代からで、自作の木製クレーンを作って、クレーン撮影を試みたり、巷の夜のロケ撮影をステージに白ホリゾントを張り、スモークと照明で効果を出してセットで撮影したり、ひとりふた役の撮影効果を考案したり、スクリーン・プロセスの試作と、撮影の表現を広げ、効果をあげるため、特殊撮影の手法にも果敢にチャレンジしていた。その極致が昭和101935)年の『かぐや姫』の撮影で、京の都を進む牛車を表現するため、牛のミニチュアをコマ撮り用に16個動きを変えて制作し、牛車の前に一コマ撮りでつけ替え、京のミニチュアの中を牛車が進んでいくシーンを立体アニメーションで撮影してみせた。アメリカ映画の『キングコング』(33/監督:メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック)に感心して、参考用に一本のフィルムを焼いてもらい、一コマ、一コマ、その技法を研究して、そのやり方を分析していた成果だった。こんなキャメラマンはちょっといないんじゃないか。同年の『百万人の合唱』(35/監督:冨岡敦雄)では、陽気な音楽映画のため、鉄製のクレーンを制作して、クレーン撮影を多用し、試作したオプチカル・プリンターによるマスク合成やワイプを使い、軽快な画面を生み出していた。

 円谷英二には、ニガイ経験があった。
 戦後、東宝を離れて、大映京都撮影所の『透明人間現わる』(49/監督:安達伸生)の特殊撮影を手がけた時、特殊映画技術研究所(円谷研究所)の円谷英二、国分正一、有川貞昌の撮影メンバーで撮影したのだが、照明、美術、技術、映像スタッフとは初顔あわせであり、多量の手描きマスクを作り、透明人間の効果を狙いながら、スケジュール消化も精度も悪く、狙った効果をあげられなかった。撮影クルーだけではどうにもならない。撮影所の中で全システムを機能させなければ、科学技術としての特殊撮影は、レベル・アップできない、と痛感したのである。
 翌・昭和251950)年に、東宝撮影所の中に円谷研究所を設置して、昭和291954)年まで、東宝作品の全てのタイトル部分、予告編の下請け作業を行い、作品を手がけながらスタッフ編成を整えて、昭和281953)年の『太平洋の鷲』(監督:本多猪四郎)、そして、『ゴジラ』へとたどり着くのである。
 カラー化、ワイドスクリーン化、立体音響化と、レベル・アップする映像技術に、円谷英二特技監督は、特殊技術のレベルをあげて応え続けた。昭和341959)年の『日本誕生』(監督:稲垣浩)では、バーサタイル・プロセスの合成機を制作、これは、フィルムを横走りさせるビスタビジョン・タイプの合成機で、35㎜フィルム二コマ分を一コマとして使用、70㎜サイズで合成を行い、35㎜へと縮小して画面の精度をあげる70㎜合成システムだった。フィルムがなかなか安定せず、実際には、34カットしか使用できず、従来の35㎜のオプチカル・プリンターの合成や生合成が多かったとのことだが、新しい技術へのチャレンジは、円谷終生の考え方であった。
「将来は電子科学を応用した特殊技術の方法も発見され、その利用によって、映画がさらに前進する可能性も十分に考えられてよいと思う。だから、映画の特殊技術の可能性を100パーセント発揮するのは、むしろこれからだと考えている」(『藝術新潮』596月号)
 これは、昭和341959)年に円谷英二が書いた文章だが、デジタル特撮の可能性を円谷が夢想していたのか、と感無量になってしまう。

 東宝の特殊技術陣を育てあげた円谷英二が、さらに、企画、脚本、演出、撮影、美術と、特撮をいかす全パートを一から作ってみたら、と考えたのが、昭和381963)年に設立した“円谷プロダクション”であった。
 円谷英二は、昭和381963)年、円谷プロダクションを設立(当初の社名は“円谷特技プロダクション”。昭和431968)年126日に現在の社名“円谷プロダクション”に改名)、特撮スタッフだけではない企画、脚本、撮影、照明、美術、デザイン、合成、特撮クルーが『特撮をいかすアイデアを考えていく』、まったく新しい形態の映画プロダクションの誕生であった。
 昭和381963)年、日活映画の市川崑監督作品『太平洋ひとりぼっち』で、海洋特撮シーンをまず手がけ、フジテレビの特撮ヒーローもの『WOO』を企画するが、これはNG。TBSドラマ『UNBALANCE』が動き出し、やがて、正式に『ウルトラQ』と、タイトルが決定、TVドラマの枠を越えた特撮とSFタッチのドラマ、怪獣イメージで、円谷プロダクションは、TVシリーズの中に大きな可能性を見せていった。合成シーンを重視するのが円谷プロダクションの特質で、最新合成機である“オックスベリー1900”をTBSに納入してもらい、昭和411966)年の『ウルトラマン』、昭和421967)年の『ウルトラセブン』と、カラー映像の中に、時に東宝特撮でもできない大胆で、精緻な合成設計を見せ、長年、映画スクリーンで、東宝の特撮に慣れ親しんでいた少年ファンに衝撃を与えた。『ウルトラQ』、『ウルトラマン』を11歳から12歳で見たショックは、今でも忘れない。新しい特撮の時代がはじまったことをTV作品の合成で実感したのだ。バルタン星人の分身の術やウルトラマンのスペシウム光線に八つ裂き光輪、ウルトラセブンの変身シーンとそのビジュアル・インパクトに仰天したものであった。『マイティジャック』(68/フジテレビ)や『怪奇大作戦』(68/TBS)のタイトル・シーンのカッコよさ、合成の切り口がこのプロダクションのスマートさを実証していた。脚本の中心となる文芸部の脚本家・金城哲夫は、『ウルトラマン』制作時27歳、高野宏一特技監督は31歳、合成の中野稔は27歳、特撮キャメラマンの佐川和夫は27歳と、現場スタッフも若手中心だった。円谷一、飯島敏宏、実相寺昭雄というTBSのディレクター陣も30歳前後で、この若い感性の生み出すアイデアが特撮シーンの面目をまさに一新していったのだ。
 特撮の持つ映像イメージを異端視せず、企画のエネルギーとして、ドラマを活性化させる新しいエレメントとして、おもしろい映像素材として考え、自在に取り組んでいける若い世代の映画人を育てたい、という発想さえ、そこには感じられた。

『ウルトラQ』や『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』、『怪奇大作戦』という作品を見た時のショックを思い返すと、そのSF的なストーリーのアイデアの冴え、練りあげられたセリフとドラマの手ごたえ、それが抜群の特撮シーンの映像イメージと必ずリンクしていて、ドラマチックさで支える特撮イメージの印象は強烈であった。
 ゴジラやラドン、モスラと、映画で見慣れていた怪獣も、単なる原水爆実験の影響で出現、あるいは、太古の怪獣であったものが、その出現理由にさまざまなテーマ、ストーリーがあり、こういうSFストーリーや哀しみのファンタジーのムードさえ出せるのか、と作品の広がりに魅了された。
 特撮映画のストーリーは、円谷プロ作品によって、何倍にも広がった感があった。SFストーリー&ドラマチックさとビジュアル・イメージの特撮シーンの画面を設計できたことが、このプロダクションの切り開いた大きな魅力だった。
『ウルトラQ』は、円谷プロがはじめて手がけたTVシリーズだったため、円谷英二は、全話のあがってくる特撮シーンを自ら粗編集して、特撮をドラマとリンクさせる編集技法、テクニックを円谷プロの若手スタッフに実作の中で教えていった。「鳥を見た」や「ペギラが来た!」では、川上景司特撮監督があげてくる特撮カットに満足できず、自分で特撮シーンを指揮して演出まで手がけた。合成の中野稔技師に聞いたことがあるのだが、「ペギラが来た!」で、野長瀬三摩地監督が描いた絵コンテ通りの構図で撮りあがってくるペギラのカットが円谷英二は満足できず、「構図だけ絵コンテをなぞってもダメなんだ。このカットの求めているサスペンス、ドラマを映像にしなきゃダメじゃないか」と、再撮影したという。野長瀬監督と編集は火花を散らせ、どんどんカットが短くなり、ラストのクライマックスをサスペンスフルに完成させた。中野技師は合成シーンも「円谷(おやじ)さんが驚くカットを作りたかった」と、怪獣からズームバックしてくると、見ている人間がいる合成カットを立案、円谷英二に「これは無理だ。できるなら俺が東宝でやっている」と言われるが、ズームの揺れる映像の中心を常に画面の同位置にして合成、そのカットを完成させた。『ウルトラセブン』のセブンの変身シーンもダンの顔からズームバックさせながら、セブンへとバーッと変身していく……モーション・コントロール・カメラのない時代、ズームバック合成は至難だったのだが、画面の動きを分析して、見事に一画面にマッチングさせていた。『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』のドラマ部分の撮影監督は、東宝から内海正治、鈴木斌、福沢康道、逢沢譲、永井仙吉と、劇場映画のキャメラマンに撮影してもらっていたが、特撮班は、高野宏一、佐川和夫、鈴木清、稲垣涌三、中堀正夫と、若手スタッフにチャレンジさせ、35mmの映画サイズのフィルムを使う映画作りのノウハウを身につけさせていった。大岡新一キャメラマンもそうだが、円谷プロ出身のキャメラマンが映画界でいかに多彩な仕事をしているか、『ウルトラマンティガ』(96/MBS)のドラマ部分の倉持武弘、特撮班の高橋義仁両キャメラマン(大岡キャメラマンのもとで、ふたりとも特撮をこなしていた)が『ウルトラマンダイナ』(97/MBS)、『ウルトラマンガイア』(98/MBS)と、3年間手がけることで、いかに撮影監督として力量をあげていったか言うまでもないだろう。

 円谷英二は、昭和451970)年125日に亡くなり、円谷プロの仕事は、息子の円谷一社長(昭和451970)年〜昭和481973)年)、円谷皐社長(昭和481973)年〜平成71995)年)に引きつがれ、多くの特撮作品とヒーロー、キャラクターを生んできた。
 現在、円谷プロは、皐社長の長男である円谷一夫社長に託され、21世紀の新しい特撮TVと特撮ビジュアルを模索するチャレンジである『ウルトラマンコスモス』のTVシリーズと映画の新作制作に乗り出している。
 今年は、円谷英二生誕100年にあたり、円谷プロの膨大な作品群とそのリスト、作品解説、そして、英二の三男の円谷社長が率いる円谷映像が作ってきたTVシリーズやビデオ作品の全貌を俯瞰するリストと解説を結集して、円谷英二が夢見て、その志と夢、才能を自らの仕事として手がけてきた映像スタッフの成果を一冊の本としてまとめたのが本書である。ビデオやDVD、BS、CS放送で見る際の参考にぜひ使ってほしい。日本のSFTV、特撮TVの巨大な大陸の全貌が見えてくることだろう。
(文中敬称略)

初出 角川書店『円谷 THE COMPLETE 円谷プロ/円谷映像 作品集成』序章 2001年】