ウルトラマンの世界/ウルトラマン総論

ウルトラマンの世界


『ウルトラマン』は、昭和411966)年717日から、翌昭和421967)年49日まで、約8ヶ月間、『ウルトラQ』の後番組としてTBS系で放映された円谷プロの空想特撮ドラマである。
 前作の『ウルトラQ』が色濃くSFドラマを指向していたのに比べ、怪獣路線、カラー化、巨大ヒーロー性の要素が混入された空想特撮シリーズが、この新シリーズの特色であった。
 “宇宙の悪魔”ともいうべき凶悪な宇宙怪獣・ベムラーを宇宙の墓場に護送中、M78星雲の宇宙警備隊員は、ベムラーに逃亡され、逃げるベムラーを追い地球へとやってきた。その追跡の途中、宇宙人は誤って空中をパトロールしていた国際科学警察機構の科学特捜隊員・ハヤタの乗ったジェット機に衝突し、ハヤタの命を奪ってしまった。
 宇宙人は自分の不注意を詫び、自分の命をハヤタに託し、彼とともに一心同体となって、地球に留まることを決意した。
 湖に隠れていたベムラーを倒し、“ウルトラマン”と名づけられた宇宙人は、ハヤタとともに生き、地球の平和を乱す怪獣や宇宙人が現れるや、M78星雲人の姿に戻り、敢然と戦うのである……。
『ウルトラマン』とは、こういう物語である。毎回、原則として、読み切りの形をとり、一回に一怪獣か、一宇宙人の登場を扱っている。変化に富んだストーリーとともに、登場する怪獣や宇宙人のユニークなデザイン、形態、能力、登場の仕方のおもしろさは、『ウルトラマン』の大きな魅力であった。ストーリーと華麗なカラー特撮、その二本柱が『ウルトラマン』の魅力でもあり、大きな柱でもあった。
『ウルトラマン』は、その内容的にいえば、以下の3つに分類することができる。

1 怪獣もの
 内容的には、SFともいうべきなのだが、あまりに怪獣(あるいは特撮)が魅力的で、作品を見終わった後、怪獣の個性的なイメージが強く残る作品。『ウルトラマン』の怪獣は、『ウルトラQ』の怪獣に比べ、全体としてもキャラクターがより明確になっている。
例、第3話『科特隊出撃せよ』
8話『怪獣無法地帯』
25話『怪彗星ツイフォン』
2627話『怪獣殿下』ほか。

2 宇宙人もの
 怪獣と違い、知的な生命体である宇宙人の地球侵略を扱った作品。これは総論で後述するが、『ウルトラマン』の宇宙人は、人間とは極めて異質なもの、という不思議な性質があり、「ウルトラ」シリーズの中でも特異な位置を占めている。バルタン星人などは、1の怪獣もののような性質も持っているが、ともかくも、宇宙人ものとは、一線を画している。
例、第2話『侵略者を撃て』
18話『遊星から来た兄弟』
28話『人間標本56
33話『禁じられた言葉』ほか。

3 ファンタジーもの
 怪獣や宇宙人、怪奇現象が登場することは登場するが、作品を支える独特の視点のために、いわゆる、“怪獣もの”とは、明確に異なる作品として仕上がっている。脚本:佐々木守、監督:実相寺昭雄作品や、脚本:金城哲夫、監督:樋口祐三作品のヒドラやウーの話がいい例。
例、第15話『恐怖の宇宙線』
20話『恐怖のルート87
23話『故郷は地球』
35話『怪獣墓場』ほか。

 考えてみれば、この3つの方向は、原型が『ウルトラQ』にあり、『ウルトラセブン』にも受け継がれた円谷プロ作品の独特の方向でもあったのである。
 一本、一本のストーリーを重視しつつ、全体をひとつの話として、『ウルトラマン』とはどのような世界であったか、どのように盛りあがっていったか、それを考えながら、この一冊を構成した。
 もちろん、ストーリーばかりではなく、この世界を彩る科学特捜隊や怪獣、宇宙人、特撮シーンにも誌面をさき、目で見る『ウルトラマン』の世界が再現できうるべく考えた。

『ウルトラQ』の登場まで、日本のSFテレビは、“スーパーマン”に影響を受けた“月光仮面”型スーパーヒーローものと『鉄腕アトム』(63/CX)と『鉄人28号』(63/CX)からはじまったSFアニメの双璧で形作られていた。そこに、『ウルトラQ』から特撮ドラマSFの傾向が加わり、昭和40年代前半、日本SFテレビは、三つどもえの展開を続けるのである。
『ウルトラマン』は、その流れの中で、ドラマSFとスーパーヒーローSFの両方の流れが渾然と一体になった円谷プロ独自の新方向であった。
 巨大ヒーローもののパイオニアであると同時に、『ウルトラマン』は、本格テレビSFと娯楽テレビ作品の合体を目指した円谷プロ作品のひとつの流れだったのである。
 果たして、それが成功したのか、どうか……それを判断するのは、視聴者のあなたであろう。
 全体像としての『ウルトラマン』が理解していただければ、幸いである。


ウルトラマン総論 


『ウルトラマン』は、昭和411966)年717日から、『ウルトラQ』の後番組として、その放映を開始した。以降、数度の中断があるものの、10年以上にわたって継続した「ウルトラ」シリーズの事実上の確立、第一歩であった。
 この稿では、その『ウルトラマン』とは一体、何であったかを少し考えてみようと思っている。
     ※     ※     ※
 今回、この本を作るために、『ウルトラマン』を全体にわたって、何度も見たのだが、何度見ても、渾然とさまざまな要素が一体化している、という印象は、ついに変わらなかった。
『ウルトラマン』は、それが魅力ともいえるし、それが作品世界の完成度を妨げていた原因なのかもしれないが、ともかく、『ウルトラマン』は、さまざまな方向にその世界をのばそうとしていた、草創期らしい円谷プロの意気込みがこもった作品ではあった。
 その見どころともいうべき、いくつかのポイントを書き出してみよう。

1 40メートルの宇宙人が怪獣と組み討ち、エネルギー光線など、さまざまな秘術を尽くして戦う、という目もくらむイメージ(君は、東京の街並みを見て、『あッ、ここにウルトラマンが立っていて、バルタンやネロンガと戦ったらなァ!』と、実感を込めて思い、目がくらみそうになったことはないか!?)。

2 人間が瞬時で40メートルの巨人に変身する、というイメージのパワー(この12で『ウルトラマン』の世界が理詰めなSFではなく、目で見るSF----視覚イメージSF----ともいうべき何かであることは明白だ)。

3 『ウルトラQ』の優れていた部分を継承し、さらに、活劇としてパワーアップできないか、という発想がある。カラー化がその端的な例だが、ウルトラマンさえ出なければ、『ウルトラQ』といっても少しもおかしくない、第10話『謎の恐竜基地』、第20話『恐怖のルート87』、第30話『まぼろしの雪山』などの作品もシリーズの中で続出し、活劇性の強かったシリーズの中で、不思議な余韻を後に残した。

4 制作者(スタッフ)たちが自分の描こうとしている作品の狙いをよく承知しており、互いに刺激し合って作品を作っていたということ。全体のアウト・ラインをおさえる金城哲夫、その対極に立つ佐々木守、一作、一作を違うイメージで脚本化した山田正弘、藤川桂介などの脚本家ばかりではなく、本編の演出陣が、個性あふれる演出を繰り広げ(演出ばかりではなく、飯島敏宏監督は千束北男、野長瀬三摩地監督は南川竜、樋口祐三監督は海堂太郎、とペンネームを使い、脚本作りにも健筆をふるった)、作品のバラエティーに富んだイメージを確立した。

5 そのバラエティーに富んだストーリーのおもしろさとその魅力(これこそ、この作品の本当の魅力だ!)。数ある怪獣TV番組だが、『ウルトラマン』ほど、バラエティーのあるストーリーを持つ作品は珍しい。特撮や、その怪獣、宇宙人のデザイン、造形的な魅力はいうまでもあるまい……。

 などなど、いくら書いてもキリがない。以下、少しずつ後述するとして、『ウルトラマン』の物語へ入っていくことにしよう。

その宇宙人像
『ウルトラマン』を見ていて、『おもしろい!』と思うことは、『ウルトラマン』の持つ宇宙人像が極めてユニークだという点である。
『人間とは異質』という一線が明確に引かれているのだ。
 円盤の中に20億もの同胞をミクロ化(!)して、宇宙を放浪していたバルタン星人は、その概念の中に、“生命”にあたる言葉を持っておらず、どのような生態システムで生きているのか、はなはだ謎であること。宇宙のあらゆる文明を滅ぼすことが彼の仕事であり、そのために自分は生まれてきたのだ、と語る。おそらく、ウルトラマンの対極に立つ宇宙破壊工作員ともいうべきザラブ星人(宇宙中に何万ものザラブ星人が派遣されていると考えれば、このイメージはとても楽しい)。3つの顔(!)を持ち、何の目的をもって、人間を標本化するのか、ついに、作品の中でも少しも明らかにされない宇宙生物ダダ。武力征服ではなく、人間の心に挑戦するためにやってきたメフィラス星人。「ゼットン、ゼットン……」とだけ、言い残して死んでしまう謎のゼットン星人……などなど。『ウルトラマン』に登場する宇宙人は、自分の目的を明確に語る『ウルトラセブン』の宇宙人たちと比べれば、いかに異色かがわかるであろう。
 主人公のウルトラマンこと、M78星雲人にしてからが、空を飛ぶ時は赤い球体になる(!)こともあり、“生命”を自在に移植し、人間に乗り移ることもできれば、空も飛び、手からは自在にエネルギー光線を出す……など、目もくらむばかりのイメージで、とても“人間的”と呼べるような知的生命体ではない。
 いや、ウルトラマンの心は、人間以上に“人間的”だという意見もあろうが、それこそ作者たちの狙い、というべきであって、“ウルトラマン”の宇宙人像は、基本的に地球人ではないのだから、本質的に異質なハズだという極めてノーマルな部分から出発していると思われる(『宇宙生物だ……怪物だ』というダダのイメージがもっとも端的か。『人間には理解できない』=怪物という図式が、“ウルトラマン”の宇宙人を支えていたのだ)。
 この発想を広げていけば、極点に『ウルトラQ』のバルンガや外国SF映画の『エイリアン』(79/監督:リドリー・スコット)が現れてくるわけで、『ウルトラマン』の宇宙人は、原点ともいうべき、円谷プロ宇宙人像の出発点でもあったのである。
 そして、この“人間とは異質”という部分が、やがて、最終回において、重要な意味をおびてくる……この発想は、『ウルトラマン』の根本のテーマにまでつながっていくのだ。

その物語世界
 映画とテレビシリーズの一番の違いは何だろう、とあなたはお考えになったことがあるだろうか?
 ひとつの物語世界として完結している映画、ひとつの設定と主人公たちを使ったいくつもの物語で、物語世界が形作られるテレビシリーズ、両者の最大の違いは、この部分ではないだろうか。
 テレビシリーズは回数があるがゆえに、テーマの重層化が可能、という不思議な性質を持っているのだ。ひとつのテーマを何回にもわけて描くこともできれば、アンチ・テーゼのようなテーマを打ち出し、メイン・テーマに厚みを加えることさえ可能なのだ。
 円谷プロの第一期の核ともいうべき作品群(『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』、『怪奇大作戦』)を筆者が強く推したいのも、このテレビシリーズでの長所を円谷プロの作品に携わったスタッフたちがよく心得ていて、何とか作品の中で表現しようとしているからなのだ。

『ウルトラマン』のメイン・テーマは、第一話と最終回に集約されているが、そのメイン・テーマと対をなすアンチ・テーゼともいうべき作品が『ウルトラマン』には約3本ある。
23話『故郷は地球』(脚本:佐々木守、監督:実相寺昭雄)
35話『怪獣墓場』(脚本:佐々木守、監督:実相寺昭雄)
37話『小さな英雄』(脚本:金城哲夫、監督:満田穧)
3本である。
 地球を狙う宇宙怪獣だと思っていた怪物が、実は、変身した人間の姿であり、某国の宇宙政策の犠牲になった宇宙船パイロットであったとわかる『故郷は地球』。復讐に狂う彼は、世界平和会議を成功させる名目で、一匹の宇宙怪獣として始末される、というストーリーを通して、この物語は科特隊とウルトラマンの戦う正義とは、一体、何なのか、ということに激しい疑問を投げかけていた……。
 また、『怪獣墓場』では、怪獣に託して、異質な者、はみだされてしまった者を受け入れない我々の社会を、マンガチックな表現の中で、絶望的に近いまなざしで訴えかけており、ラストのナレーションや作品の随所にふりまかれたアキコのセリフは、作品に異様な余韻を残していた----。守られ、保護されるうちに、人間としての生きるプライドを失うイデを通して生きることとは何かが語られる、『小さな英雄』----いずれも『ウルトラマン』の設定が根本的に内在させていた問題点を扱っており、『ウルトラマン』のテーマの再検討ともいうべき作品群であった。
 構成上のミスや、怪獣の眠る宇宙の怪獣墓場、怪獣酋長、超能力で怪獣復活……などなど、“傑作”と呼ぶにはいささか迷わざるをえないが、キャラクターの性格表現やアンチ・テーゼという点で、この3作は『ウルトラマン』の中で特筆すべきだし、この3作が果たしている安全弁の役割を大きく評価しておきたい。
『故郷は地球』、『怪獣墓場』、『小さな英雄』の3本がなければ、『ウルトラマン』のテーマがあのレベルまで到達できたかどうか、筆者には大きな疑問なのである……。

 科学特捜隊という愛すべき5人のキャラクターについても少し触れておきたい。
 日本の実写SF番組で、このような科学パトロール隊が作品の中で、縦横に活躍するのはこの作品がはじめてである。光線銃、制服、ジェット機、基地、潜水艇ほか、近代科学のさまざまな兵器を身につけたパトロール隊とは、世界のSFテレビの中でも、あの完成度を持つ作品となると、なかなかないのではないか!?
 その未来的なイメージが作品の大きな力となっており(これは微妙な点なのだが、ムラマツ、ハヤタ、イデなどの主人公たちが片仮名というそれだけのことで『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』は、不思議な未来感がある。あなたは“キリヤマ”というのが、どういう漢字で書くかなどと考えたことがあるだろうか?)、現実世界を舞台にしていながら、21世紀的なイメージが作品の根底に流れていたのである。
 キャラクターの5人も仕事に厳しく鬼隊長の面も持つムラマツ隊長(キャップ)、エリートで二枚目な主人公・ハヤタ隊員、新兵器開発ほか、科学面で抜群の力を発揮するギャグ・メーカー・イデ隊員、豪放磊落、射撃の名手・アラシ隊員、紅一点のフジ・アキコ隊員など、典型的な5人の主人公たちだが、役者の好演と脚本、演出の工夫が、ただのギャグ・メーカーや鬼隊長、紅一点に終わらせていなかった点は、大いに評価されてよい。
 例えば、イデをもっともギャグ・メーカーとして活躍させた飯島敏宏監督作品でも、第5話『ミロガンダの秘密』で、前半、イデとアラシをギャグとして徹底的にチャカしていたのに、ラストにアラシが自らの責任としてグリーン・モンスに立ち向かうと……。
 ムラマツがアラシを止めようとするハヤタ、イデを制止する。
ハヤタ「しかし、アラシは責任感の強い男ですからね」
イデ「(心配そうに)自分の責任だと思ってるんだ」
 こういう時の、各キャラクターは圧巻としかいいようがない。各作品で至るところに、スタッフのキャラクターの肉づけへの熱意を感じることができた。
 アラシに至っては、明らかに欠陥人間で、
「俺は怪獣を見ると、ムラムラ闘志が湧くんだよ」
という第36話『射つな!アラシ』でのセリフなど、寒々とした感触もあり、シリーズ中、何度もあったイデとの対立は、この両キャラクターを明確に私たちに印象づけた(『故郷は地球』、第30話『まぼろしの雪山』などを参照して下さい)。
 アット・ホームの感さえある科特隊は、深い信頼と人間性で結びついた人間集団の感があり、のちの『ウルトラセブン』の地球防衛軍という巨大な組織と比べると、いい意味で、好対照といえるのではないか。

その最終回
 テレビシリーズがひとつの物語であることは、筆者も知っていた。しかし、それが子供番組の中で、衝撃ともいうべき実感を持って感じたことは、この『ウルトラマン』が最初であった。
 最終回、正攻法の侵略ものとして幕を開けた物語は、終わりに近づくにつれて、驚くべき展開を見せはじめた……第一回に物語がつながりはじめたのだ!!
 最終回のゾフィとマンの会話がはじまった時、おぼろげながら、それが第一回のマンとハヤタの会話につながっていることを感じはじめた……そして、聞くにつれて、ウルトラマンは、地球の平和を守るためではなく、ハヤタを生かし続けるために地球にい続けたとしか考えられなくなってきた----ウルトラマンは、ハヤタのことしかいわない!
ゾフィ「ウルトラマン、目を開け……私は、M78星雲の宇宙警備隊員ゾフィだ。さぁ、私と一緒に光の国へ帰ろう、ウルトラマン」
ウルトラマン「ゾフィ、私の身体は私だけのものではない。私が帰ったら、ひとりの地球人が死んでしまうのだ」
ゾフィ「ウルトラマン、お前はもう十分地球のために尽くしたのだ。地球人は許してくれるだろう」
ウルトラマン「ハヤタは立派な人間だ。犠牲にはできない。私は地球に残る」
ゾフィ「地球の平和は、人間の手でつかみ取ることに価値があるのだ。ウルトラマン、いつまでも地球にいてはいかん!」
ウルトラマン「ゾフィ、それならば、私の命をハヤタにあげて、地球を去りたい……」
ゾフィ「(驚いて)お前は死んでもいいのか!?
ウルトラマン「かまわない。私はもう二万年も生きたのだ。地球人の命は非常に短い。それに、ハヤタはまだ若い。彼を犠牲にはできない」
ゾフィ「ウルトラマン、そんなに地球人が好きになったのか……よし、私は命をふたつ持ってきた。そのひとつをハヤタにやろう」
ウルトラマン「ありがとう、ゾフィ……」
 かくて、ウルトラマンの地球での驚くべき物語は終わり、ウルトラマンは地球を去っていく。
 科学特捜隊隊長・ムラマツの----人類の----
「地球の平和は我々、科学特捜隊の手で守り抜いていこう!」
という力強い言葉を背に……。
 二万年も生きた宇宙人・ウルトラマン、彼の心の中が大幅に地球人と違っているのは当然だろう。身長や能力以前に異質なものとして彼は考えられていた気配がある。
 その彼が、地球人を好きになる----友情を感じるようになる----というところが、『ウルトラマン』のテーマだったのではあるまいか。
 作者たち(スタッフ)は、限りなく広い宇宙を見まわした時、異質なものの間でも、心の底からの交流が可能なのだということを----そして、人間同士であるならばいうまでもないということを----ひとつの希望、願望としてこの作品に描いたのである。
 筆者は夢見ることがある。この『ウルトラマン』の世界の人間の子孫が宇宙へ飛び出し、M78星雲のウルトラマンと遠い未来に再会する。すると、ウルトラマンはこう語るのだ。
「私は、何百年も昔、君たちの星で暮らしたことがある。友よ、私は君たちがくるのを待っていたのだ!」
 ウルトラマン、それは希望に満ちた人類の夢の象徴ではないだろうか!

『ウルトラマン』、それはスーパー・ヒーローものとはいえ、子供向け作品とはいえ、各種のテーマを描くことができるし、全編をひとつの物語として作ることだって可能なのだ、ということを教えてくれた作品であった。
 血湧き肉躍る『ウルトラマン』……それは私たちが昭和41年に手に入れた日本テレビSFの新しい突破口であり、現在に至っても内部に可能性を秘めている----「空想特撮」シリーズの代表作である。

【初出 朝日ソノラマ・ファンタスティックコレクションNo.20『特撮ヒーローのすばらしき世界 ウルトラマン フィルム・ストーリー・ブック』1980年】