作品解説『大魔神逆襲』 

 「大魔神」シリーズ第3作である『大魔神逆襲』<昭和41(1966)年12月10日公開>は、冬の公開らしく雪山を舞台に物語が設定された。1作目が山国、2作目が夏なので湖の国、3作目が冬なので雪国、という大自然の舞台の取り方が楽しい。大魔神は、常に大自然の懐深く眠っているからであろう。
 物語は、火薬の原料となる硫黄を掘り出し、火薬工場を造るため、隣国の荒川飛騨守(安部徹)によって、瓜生の里の木こりたちがさらわれ、地獄谷へとかり出された。木こりのひとり・三平は、谷を脱走して、魔神の山を越えて村へと帰りつく。三平は、仲間を助けるためには、魔神の山を越えるのが唯一の道と言い残して、疲労のために絶命した。山のタタリと恐れる村人だが、鶴吉(二宮秀樹)をリーダーとする子供たちの仲良し四人組は、とらわれの父親や兄を助けようと、入ることが禁じられている山奥の魔神の山へと向かうのだった。険しい道のりが四人の前に立ち塞がる。途中、少年のひとり・金太が川の流れに飲まれ、地獄谷も作業が完成して、父親たちに危機が迫る。そして、雪が降りはじめ、寒さに力尽きようとする鶴吉は、これも魔神の山を侵したタタリだろうか、と自分の体を神様に捧げ、仲間ふたりと父親たちを救って下さい、と祈りながら雪降る谷間へと身を投げるのだった。すると、魔神の山に異変が起こり、大魔神が出現した。金色の光を放って大魔神が消えると、鶴吉が身を投げた谷間の雪面が金色に光り出し、雪の中から雪を吹きあげながら姿を現す大魔神----その右手には、しっかりと鶴吉が握られていた。よみがえる鶴吉。
 そして、吹き荒れる猛吹雪の中、地獄谷の飛騨守の軍勢に迫る大魔神。その怒りが爆発、ついに大魔神は神剣を抜いた!
 『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』(52)、『薄桜記』(59)、『不知火検校』(60)、『続・座頭市物語』(62)、『ある殺し屋』(67)と、娯楽映画作家として、いくたの傑作を作り続けてきた森一生監督がケレン味もたっぷりに、ストーリーを盛りあげた。第1、2作目が若侍と姫様が魔神を呼び出すのに対し、今回は子供で、その理由を質問すると、森監督は、「もう女と男はつまらん。子供好きだから、子供でやらしてくれ、と言ったの。子供が出るといいんですよ。子供ってのが一番神様に近いんです」と、昭和59(1984)年のインタビューで答えてくれた。
 森一生監督が内に秘めていたリリシズムが子供たちの表情とけなげな心情描写の中によく表出していたと思う。途中、子供のひとりが川で死んでしまう描写については、「あれだけ険しい山を行くのに、全員無事では完全に嘘になってしまうので、兄がすでに死んでいる金太を死なせたんです」と、監督は語る。この微妙なバランス感覚こそ、この作家のハードボイルド・タッチで、『ある殺し屋』、『続・座頭市物語』のニヒリズム、抑えた感情の噴出と対をなすものである。
 森監督の製作当時のコメントをもうひとつ紹介しておこう。「今度の作品は前の2本に比べるといわば、“大魔神と鷹と少年”といった非常に童話的な取り合わせで、台本を読んでいてもとてもおもしろいんですが、一番頭を痛めているのは、立山や大台ヶ原といったロケーション部分とセットの特撮部分をいかに結びつけるかといった点です。シナリオの方は、文字づらだけでも面白く書き込めますが、それをひとつひとつ具体的に絵にしていく方は大変ですわ。それに今度は鷹が神のお使い番とかで非常に重要な意味を持っているのですが、鷹というのは、人になかなか慣れないとのことで困っています。だけどこの鷹の部分と大魔神の出現のシーンがこの作品の出来を左右するので、特撮監督の黒田クンと前2作の経験を充分生かして、子供は勿論、大人の鑑賞にも耐えうる作品にして見せます」
 特撮の最大のみせ場である大魔神の雪面からの出現シーンは、わずか30秒に13時間もの準備をしたシーンだ。黒田義之特撮監督、森田富士郎キャメラマンをはじめ、約30人の特撮スタッフが第5ステージに、まっ白なプラスチック製の人工雪(カポック)と岩を散りばめた雪山と雪面のセットを作り、中央に作った深さ3メートルの大型扇風機が待機。吹雪になる人工雪は、カポックをゆっくりノコギリでひき、人工雪の粒子まで2.5分の1に縮小する、という凝りようである。
 一瞬が勝負なので、液体パラフィン、扇風機、クレーンの上下と持ち場についた各スタッフに黒田義之特撮監督は、10個のランプで合図を送る司令塔から連絡する。午前9時からはじまった撮影は、リハーサルを繰り返し、終了したのが午後10時すぎ。扇風機の風が吹きすさぶ雪を吹き飛ばし、大魔神の不思議なパワーを実感させる名シーンであった。
 第1作から効果を発揮した絵合成も今回は、実景と実景を絵でつなぐマットアート合成をみせ、大魔神が壁を崩すと出てくる城壁と雪山は、左、右が実景で上の雪山と中央と右端はマットアート。ほかにも崖の上の少年が下をみると、激流というシーンも、上は室内のセットで、中央の壁面がマットアート、川が実景という絵合成で一段と手がこんできた。
 導入部の魔神の起こす災害の特撮シーンも本編(人間の芝居部分)を今井ひろし撮影監督に任せた森田富士郎キャメラマンが存分に腕をふるったため、山崩れ、洪水、日照り、地震、怪光、空中より出現する魔神の影、とダイナミックな映像のプロローグであった。
 飛騨守の地獄谷の城砦を魔神が襲うシーンでも、火薬工場なだけに火薬をふんだんに使い、しかも、それが魔神の周りに渦巻く旋風のためにプワッと煙が吹き飛ぶアクセントをつけて、飽きさせなかった。雪面から出現しただけに、山へ帰っていくシーンでも雪へと変わり、風によって空中へ散っていく抜群のイメージでしめくくった。
 全編で雪を2.5分の1にしたためもあろうが、本編と特撮の融合は、ほとんどわからぬできで、第1作目に匹敵するリアリティーを画面は手中にし、ハイレベルの合成となった。
 本編のロケーション撮影は、富山県の立山連峰と奈良県の大台ヶ原と第1作からの京都近郊の沓掛に33000平方メートルの火薬工場のオープン・セットを組んで行われた。
 魔神の山の神秘さを狙った大台ヶ原では、大木が倒れて苔むし、一種荘厳なムードを漂わせる。立山をモデルにした魔神が建っている山上は、約420坪A2ステージに建てられたもので、ロングに引いたカメラの視点とブルーの明るさ、出現前兆のたれこめた暗雲ととてもステージのセットと思えぬ広がりである。野面の照明は、日本一を誇る大映京都の照明のうまさの賜物であった。
 地獄谷に大魔神が出現するシーンのセット(実物大の魔神が立ち、銃撃されるシーン)は、同じ420坪のA2ステージに硫黄を含んだ蒸気をコンプレッサーで噴き出す池からゴツゴツした岩肌まで、フル・セット化された本編ステージである。
 立山で撮影したロケーションでは、子供の俳優が、大魔神がいないので目線がわからない、とごね、森一生監督自ら大魔神の位置に立つという一幕もあった。川の激流がらみのシーンもあるが、この立山ロケのフィルムが約1000メートル、東洋現像所のミスで傷つき、再撮影するアクシデントも起きた。森監督は、「オレはいいが、少年俳優が気の毒だ」と、語ったという。危険な川下りのシーンがその中に入っていたからである。
 第1作の『大魔神』、第2作の『大魔神怒る』と、深みのある音楽で全編を支えてきた伊福部昭作曲の音楽も、得意の山岳シーンをモチーフにしたこの第3作でピークに達した感がある。山岳シーンに荘厳なムードがあふれ、伊福部音楽の聴き応えとしても満点であった。ラストの曲も美しい旋律である。
 深山幽谷の映像イメージがあふれる大魔神映画で、勧善懲悪のタッチも、大魔神の巨大な実物大の手が飛騨守を追い続け、ついに、手に捕まれた飛騨守は、大魔神の抜いた神剣によって、無残にもクシ刺しにされてしまう!
 その壮絶な最期は、悪役のやられ方としても第1作と互角の勝負ともいうべき演出であった。
 大魔神に積もった雪の白さによって、そのブルー・グリーンの顔と茶系の胴体に、さらにメリハリがつき、色彩的にもキャラクター性をアップしていたのも工夫であった。タイトルにしてからが、雪で凍ったような文字で、こういう凝り方は楽しい。スタッフ、キャストのタイトルロールをラストにロール状にして上にあげていくのは、児童映画によくあるパターンで、森一生監督の、この映画は児童映画なのだよ、という気持ちがよく出ていると思う。このラストの意外性は、『続・座頭市物語』(62)にも共通する森監督のサービス精神で、強く印象に残る名ラスト・シーンだ。
 撮影が難航した“鷹”は、関西で唯一の鷹匠の橋本忠造所有の愛鷹“多知聞(たちもん)”、“湧山(ゆうざん)”の2羽で、30日間断食させて演技をつけやすくして、撮影を完了した。
 かくて、完成した第3作だが、公開は冬休みに入る前の12月10日で、1作目、2作目にくらべてハンデもあり、2作目の成績に届かなかった。通常の2倍の予算を使う「大魔神」映画だけに、この結果は新企画をしぼませてしまった。「大魔神」シリーズは、3作をもって終了することになる。3作で終了したことを惜しむファンもいるが、これくらいが限度、という感じもする。“座頭市”や“眠狂四郎”、“ゴジラ”とは違うのである。かえって、3本の粒ぞろいの作品で完成したことで、「大魔神」シリーズは、不滅の光を放つことにもなった。特撮のひとつの理想の形、ドラマと特撮が支えあい、光りあう道がここにはみえる。大映京都の技術力の結晶、それが大魔神3本であった。

【初出 大映・パイオニアLDC『大魔神全集』LD-BOX解説書 1990年】