子供の視線


 昔からよく日本の映画評論家が東宝の怪獣映画について、
「ぬいぐるみの怪獣ばかりで、レイ・ハリーハウゼンの人形アニメの映像と比べると、み劣りがしてしまう、云々」と、書くのを何度も読んできた。

 文章にはなってなくても、この著者が『子供たちは気づいていないようだが、エヘン、私には、ぬいぐるみだ、とひと目でわかってしまうのだ』と思っているのは、すぐに感じて、子供心に『バカにしてらぁ!』と思ったものだ。
 小学生の僕らだって、ゴジラがぬいぐるみだ、くらいは知っていたし、そうわかっていても、時々、本物の50メートルの怪獣にみえる抜群の名カットがあって、その瞬間に立ちあいたくて、映像を熱くみつめていたのである。


 ちょうど、それはゲームのようなもので、例えば、ロクムシのゲーム(どんな漢字を書くんだ?)で、ふたつの陣地をいったりきたりするわけだけど、ゲームの途中で、
「何でこんなゲームに意味があるんだ?」
 というようなもので、水をさす、というか、砂場でお城を作っている子供に、
「キミ、キミ。それはお城じゃなくて、砂だよ」
 と、注意しているのと同じで、
「オッさん、そんなこと知ってるよ。僕は遊んでいるんで、お城を夢みて楽しんでいるんだよ。邪魔しないでよ」
 と答えるように、
『まるで、本当のゴジラがいるようじゃないか。ぬいぐるみだけど、おもしろいなぁ! あの口から出す放射能火炎って、どうやって撮ってるんだろう?』
 と思っているのに、子供の夢をさまさせてどうすんじゃ……てな感じだった。小学生の私は、『この人、頭悪いんじゃないの?』と、思ったものであった。


『ウルトラマンタロウ』(73/TBS)とかみた時、『ああっ、あの映画評論のオッさんがいってたのは、もっとおもしろく作ってくれ、ということだったのか』と思ったけど、『なら、そう書きゃいいんで、何であんなにぬいぐるみを嫌うのかがわからんなぁ。そういう言い方すると、ハリーハウゼンなんて、人形動かしているようにしかみえないんだけどなぁ』----と、若いということは怖ろしい。実に、不遜なことを考えておりましたなぁ、1215歳のころは……


 例えば、子供がいかに冷静か、という実例をひとつお話ししたい、と思う。


『ウルトラマン』の第1話をみた忘れもしない昭和411966)年717日、私は、11歳の小学6年生だった。第1話に夢中になりながら、ベムラーを倒し、飛び去るウルトラマンの飛行シーンをみながら、『オヤオヤ、人形が飛んでいくよ。『ナショナル・キッド』(60/NET)だって、合成で人間を飛ばして飛んでいるのに、人形なのかぁ……。やっぱり、難しいのかな。でも、『ナショナル・キッド』の飛行シーンってすごかったんだな』と、夢中になりながら、しっかりさめた目でみていて、それはハッキリ憶えている。


 子供の視線をバカにしちゃいけません。


「戦隊」シリーズだって、おもしろいから、彼らはみているので、いくらこちらが大人だから、といって、昔の映画評論家みたいに「こんなくだらない作品、みてもつまらないだろう」などとは、口がさけてもいえない。子供たちがクールにこちらを振り返って、
「オッさん、オッさん。こいつはフィクションだよ。くだらないからおもしろいんじゃないか? メカがビビューンと、カッコよく飛んで、ババーッとメカが走っちゃって、こんな映像、誰が毎週、作ってくれるの? 邪魔しないで、あっちへいっててよ。大人なのに、フィクションを楽しむ見方も知らないなんて、どういう育ち方したの? いいものみていないんだね。じゃーねぇ。バイバイ」
 とかいわれるんじゃないか、と思ってしまうのである。子供視線のほうが私には本物だ、と思う。理屈ばかりの映画評論に、もうひとつのれないのは、子供時代からのそんな思いがあるからなのだ。


 円谷英二特技監督の東宝特撮は、毎回、それまでの技術にない1カットが、映画の中に必ず用意されていた。例えば、『キングコング対ゴジラ』なら、胸のすく巨獣同士の肉弾戦(ハンマー投げに、一本背負い、首しめである。まさに、本物の怪獣プロレスだ。燃えるぜ!)、『モスラ対ゴジラ』なら、あの成虫モスラの唖然とする巨大さ(ゴジラとの対比をみよ、成虫モスラの操演アクションは『モスラ』をはるかにしのいでいる)、『三大怪獣地球最大の決戦』では、隕石から炎が吹きあがり、空中で爆発を繰り返しながら、怪獣の形になり、誕生するキングギドラの神話もかくやという誕生シーンの神秘さ、そして、大空から生きた破壊マシーンのように、引力光線で、地上を破壊しまくる空前の光線ジェノサイド都市アタック・シーンの映像美よ!----『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』のまさに血に飢えた野獣・バラゴンの演出設計、そして、ものいわぬ巨人・フランケンシュタインの悲しみの目と人間を守ろうと、バラゴンに戦いを挑むエモーショナル特撮、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』のメーサー殺獣光線車の架空ドキュメントのような本編&特撮の本多・円谷コンビ円熟のガイラ攻撃シーンの映像設計の見事さ……1作として、期待は裏切られず、クサっても鯛、その1カットで入場料の3倍の楽しさをもらって、映画館を夢心地で出てくるのが常だった。


 私は、身銭をきって惚れ込んだ本多・円谷コンビをみに入って、『気に入った、いいぞオヤジ!』と、個人的にこの作家のヒイキとして、契約した感じだったのだ。誰が何といおうと、私にはおもしろいんだモンネ、である。
 いまだに、アタシャ、このふたりに惚れているのである。その美しさ、カッコよさをほかの人にもわかってほしいと、まるで、オードリー・ヘップバーンの美しさを解読するように、ゴジラについて書こう、としているだけなのだ。


 ちょっと変だけど、全然変じゃない----と、本人は思ってる。頑張って文章を磨きあげて、わかりやすく、読みやすく、平易に、シンプルに、話すように書こう、とは思っている。けど、評論する気はあまりないのだ。評論するより先に、書きたい思いがあるのである。
 心の中にいる子供時代の自分が、『オイオイ、オッさん、いい加減にしろよっ!』といっているので、スマした顔で評論家ぶるわけにはいかないのだ。それでいいのか、といわれたら、明るく陽気に、確信を持って、
「それで、イイのだ」
 と、バカボンのパパのように答えるしかない。 


 そんな気持ちで文章を書いている、というお話デシタ。


1996119日記)