かつてない盛りあがりを見せた日本特撮97。
それは、21世紀に向けての高らかなファンファーレだ。
おもしろかった97年を回顧し、明日の日本特撮を分析。
それは、21世紀に向けての高らかなファンファーレだ。
おもしろかった97年を回顧し、明日の日本特撮を分析。
1997年の日本特撮界は、新しい胎動を感じさせた1年で、TV特撮では、円谷プロの『ウルトラマンティガ』、円谷映像の『ねらわれた学園』、東映の『電磁戦隊メガレンジャー』、映画では、黒沢清監督のホラー映画『CURE』が大きな成果だった、といえるだろう。
日本のコンピュータ・グラフィックスとデジタル合成も確実にあるハードルを越えた感触だが、逆にある問題が表面化してきた。イメージをどうフィルムに定着化させるかという部分で、これは少し後で詳しく触れてみたいと思う。
各作品について、少し書いてみよう。
『ウルトラマンティガ』は、従来のウルトラマン像の再生産ではなく、現代のウルトラマン----今、なぜウルトラマンを作るのか、なぜ怪獣なのか、という問いに監督と脚本がオリジナル・ストーリーとドラマで応えようとする視点が作品に中盤からみるみる力を与えていって、ダイゴとレナが互いを見つめる「ウルトラ」シリーズ初期に近いステディなドラマ作り、イルマ隊長やリーダー(副隊長)のムナカタだけでなく、ホリイやシンジョウとGUTSの隊員キャラクター全員の深化と役者の好演、セリフの充実、そして、人類はさらに進化していけるのだろうか、というウルトラマンと光に託したテーマ設計への挑戦……第1話からよくぞあそこまでグレード・アップしたものだと思う。
1話だけのゲストかと思ったヨシオカ警務局長官や超能力を持つキリノ・マキオ、闇のウルトラマンともいうべきイーヴィルティガとなる天才科学者・マサキ・ケイゴというゲスト・キャラクターがいつしか準レギュラー化する展開も、手応えを感じたスタッフのストーリー作りがまさに生きた証拠で、ウルトラマンと人類、戦いと平和のテーマの検証も含めて、『ティガ』ならではのオリジナル・イメージを生んだ、といえるだろう。
正直いって、子供向けの特撮TVで、これほど練りあげたドラマティックなセリフが続出した作品は、10何年ぶりではなかったろうか。作品を見ながら思っていたのは、『新世紀エヴァンゲリオン』(95)の現代性や、『スタートレック・ネクスト・ジェネレーション』(87)のキャラクター・ドラマにどこか似ているような……というセリフの醍醐味の余韻だった。
長谷川圭一、右田昌万、小中千昭ほかの脚本陣、村石宏實、北浦嗣巳、川崎郷太、原田昌樹、石井てるよし、松原信吾、実相寺昭雄ほかの監督陣もそれぞれ個性的としかいいようのないドラマ作りとビジュアル設計にチャレンジしていて、監督と特技監督を兼務するやり方も、怪獣や宇宙人にテーマ設計を直結する狙いであった以上、当然だったと思う。
個人的には、村石宏實、川崎郷太両監督の作品が楽しみで、『今、ウルトラマンをやるならこれをやりたい』という作家の意志を濃厚に感じることができた。脚本を読んでみたいと思わせる特撮TVシリーズで、どこかで傑作選で出してもらえんでしょうか!?
もうひとつ、脚本にみなぎるパワーで仰天したのが、円谷映像制作の『ねらわれた学園』である。脚本は、村井さだゆき、神尾麦、小中千昭、監督は、上野勝仁、清水厚、高橋巌3人が3話ずつ担当している。
原作の眉村卓の『ねらわれた学園』から想を自由に広げたサイキック・ストーリーだが、ビデオ撮影の画質の虚無的なタッチを意図的にいかして、深夜の放送を見ながら唖然としてしまった。フジテレビ系の『木曜の怪談』(95)などは、TVマンガとしか思えぬタッチだが、超能力ひとつでも演出と撮影次第なのだ、と思わせる仕上がりが、ただ、ただ、見事だった。
円谷映像は、『エコエコアザラク』でも、悪魔と魔女のサイキック・ホラーの新生面を開いていたが、まずシナリオの充実と少ない予算に負けない監督陣のドラマ指向がうれしい。
特撮TVは、もちろん、「ウルトラマン」や「戦隊」シリーズのヒーロー特撮が主流なのだろうが、かつてのNHKの少年ドラマの学園物やオカルト・タッチのミステリーをわずかな特撮とエフェクトで見せていくドラマSFの方向もあるのだ。日本特撮を再生していくためには、その両翼が必要だ、と今さらながら痛感する。
円谷映像の深夜に放送するホラータッチのSF作品は、原作はあるものの、ほとんどオリジナル・ストーリーで、新しいドラマ作品の流れとしてそのパワーをあげていってもらいたい。俳優陣も好演しているので、ぜひビデオでその手応えに出会ってほしい。
特撮と合成のビジュアル面では、時に、『ウルトラマンティガ』も、唖然とさせるスピード感と実景との合成、シャープな編集を見せたのが東映の『電磁戦隊メガレンジャー』と『ビーロボ・カブタック』である。
佛田洋特撮監督とデジタル・エフェクト担当の尾上克郎コンビのビジュアル演出は、ある意味で、今、日本のミニチュア特撮の極限のメカニック・イメージを見せていると思う。
子供向けをクリアーしながら、合体シーンや出撃シーン、必殺攻撃のビジュアル・イメージに次々と新しいイメージを創造している佛田特撮監督の演出力に惚れ込んでしまう。
長年、計画していたマッキントッシュの合成システムを撮影所の特撮研究所の中に設置し、尾上克郎デジタル・エフェクト担当が操演では実現できないビジュアル・エフェクトを次々に映像にしていて、例えば、『ビーロボ・カブタック』のロボットたちのスーパー・チェンジシーンの陽気なコミック・タッチ、『メガレンジャー』のメカニック・シーンとともに、スタッフがこの両作で、手中にしている特撮シーンの多彩さは、特筆ものと思う。
『ウルトラマンティガ』やロボット・アニメにもライバル心を燃やし、ストーリーから独立して映像だけでエキサイトしてしまうビジュアル編集のテクニックはピカイチ、幹部交代の3話連続ストーリーと新メカニック登場の合体・攻撃シーンのスピード感に特撮の魅力を堪能してしまった。
あらためて、特撮の魅力とは何なのか、ということを考えさせられた。
それは、コンピュータ・グラフィックスとデジタル合成、人形アニメが満載の映画『モスラ2 海底の大決戦』や『タオの月』を見ても思うことで、実は、デジタル合成の作品群は、1カットの中にイメージを盛り込み過ぎで、カット・ワークで互いのイメージを補完して1カット、1カットではなく、シーンとして“流れるようなビジュアル・イメージの連続体”となるビジュアル設計になっていないのではないかと、ここ何年か思い続けているのだ。
デジタル合成の画質が均一なのも裏目に出ることが多くて、後半のクライマックスまでパワーをさげておくべきなのに、最初からデジタル・パワー全開で、クライマックスのビジュアル・パワーの飛躍が不満を感じてしまう。
それは、映画全体のビジュアル・パワーをカットごとに設計しているためではないのか。
特撮ファンには、かなり不評だった林海象監督の『キャッツ・アイ』のハイビジョン合成だが、これは逆に、林監督のやりたい映像イメージがはっきりしていて、時計塔のマットアートのキャッツ・アイ3姉妹、トンネルの中を逃げていくキャッツ・アイのバイク・イメージのバカバカしさ、口紅の弾丸発射を追うCG描写、黒猫の気球もマンガ・タッチで、かえって映像バランスが乱れたことで、実は、特撮シーンのエフェクトとしては、作品を支える効果をあげているのではないかと思ってしまった。
特撮シーンは、作品の味わいをあげるスパイスで、フェンシングで対決する内田有紀と黒衣の殺し屋とのラブ・シーンでもあの対決シークエンスがクライマックスたりえているからで、特撮シーンばかりが立っているデジタル合成の映像設計は脱していたからだ。
『モスラ2』など、実に、手数の多い合成、CG、マットアート、光線を見せながら、同じリズム、画質、画面レイアウトに飽きがきてしまって、作者が思うほどのインパクトを感じることができなかった。
モーション・コントロール・カメラの軌道が画面の外に見えるのと同じで、デジタル合成の絵コンテとモニターのフレームが見えてしまうのである。
これは、雨宮慶太監督の『タオの月』も同じで、レイアウトのサイズをわざと変えたり、迫るマカラガを、例えば、影だけで表現したり、あるいは切られた触手がひとりで動いて、雑兵を殺して、本体に戻ってくるとか、凶々しき宇宙モンスターのカット・ワークを展開すべきだったんじゃないか!?
わざとハリーハウゼン風の平板な画面レイアウトにしたのだろうか−−−−『シンドバッド7回目の航海』(58/監督:ネイサン・ジュラン)や『アルゴ探検隊の大冒険』(63/監督:ドン・チャフィ)のころのハリーハウゼンの構図は、実に多彩で、絵コンテをあげたうえで、撮影コンテのイメージは、はるかにパワーアップしていた。デジタル合成で、逆にカメラを感じるのは、なぜだと思ってしまう。
実は昨年、つげ義春原作の映画『ねじ式』の石井輝男監督の撮影を取材で、一通り見せていただいて、その画面割りの自由さ、イメージの広がり、そして、破天荒な画面設計と演出に、映画とは……と感じさせられてしまった。特撮シーンも登場するが、それは、様式化された画面エフェクトで、特撮イメージに追求するのは、単純なビジュアルでしかなく、逆に、それがドラマティックに見えてしまう皮肉に、特撮ファンとしては、考え込まざるをえなかったのである。
映像イメージの連続性こそ、私たち特撮ファンが追うべきであって、私たちがよくいう名カットというより、シークエンスも含めたシーン設計の妙をもう1度熟考すべきだと思う。
映画では、サイコ・ホラー映画、黒沢清監督のオリジナル脚本である『CURE(キュア)』が白熱する演技と全編エフェクト画面ともいうべき、コンクリートの壁のザラついた感触と闇へのグレイ・ゾーンの画質が作品を高い緊張で引っぱっていった。
刑事・高部役の役所広司、奇怪な連続殺人の謎を握る間宮役の萩原聖人、心理学者のうじきつよし、高部の妻で、精神のバランスを崩している文江役の中川安奈、と役者に託したセリフが息づまるラストまで、まるでらせん回廊のようにくり返し、くり返し、虚無的なドラマの回転があがっていく。
まるで、切り絵細工のように1カット、1カット、1シーン、1シーン、セリフが互いを犯しあって、演出を支える撮影、照明、編集テクニックに目も眩まんばかりだった。
黒沢清監督は、『スウィート・ホーム』(89)のころも、彼のオリジナル・イメージがあったが、伊丹十三監督によって、それが表に出なかったこともあるが、特殊メイク(松井祐一)の見せ方もパーフェクトで、画面とセリフが互角の重要さを見せ(妻が自殺している悪夢のようなシーンが典型、うまい!)、見ている観客もまさに映画に追いつめられていった。
画面を盛りあげるデジタル加工の映像も効果的で、画面とマッチングしていた。
映画が終わったのに、何も終わっていない崩壊の予感と不安感のあるストーリー作りが無類で、上映ではやや暗すぎた画面を早くビデオで存分に堪能してみたい。
画調や構図、セリフ、カット・ワークは、映画作家の個性そのもで、これは、一般公開は98年の今年春になる実相寺昭雄監督の『D坂の殺人事件』も同じである。全編東京の夢のような紙模型の街並からはじまる江戸川乱歩の白昼夢と明智小五郎が出会う殺人の虚無感は、映像の行間にあふれて、ぜひもう1本の『帝都物語』(88)として、映画館でこの作品に出会ってほしい。
98年1月31日に公開された中田秀夫監督のホラー映画『リング』は、デジタル合成とはどう使うのか、という全編エフェクト感に満ちたホラー作品で、『CURE』以上に特撮イメージをどう映像にマッチングさせていくか、という解答になっていると思う。
特撮ファンは、特撮をうまく使った映画を観たいわけで、ビデオ映像とフィルムが次第に画面の中でマッチングして、溶解してフィルムがビデオに犯されていくエッジの立ったフィルムの仕上がりと編集テクニックとサウンド・エフェクトがすばらしい。『CURE』とは違う意味で、日本映画の中でホラー作品の出色だと思う。
1997年は、さまざまな作品の中で、オリジナル指向を持つ脚本(小中千昭、右田昌万、
長谷川圭一、村井さだゆき、黒沢清)と監督(川崎郷太、村石宏實、清水厚、高橋巌、黒沢清)が成果を見せ、大岡新一、神澤信一、川北紘一、佐川和夫というベテラン勢の特撮マンとともに、『帝都物語』(88)や「新ガメラ」シリーズのスタッフが各所で成長した10年の第2フィールドに入った感がある1年だった。
1998年は、塚本晋也監督、飯田譲治監督の新作映画、小中和哉監督(『ウルトラマンゼアス2』のヒーロー特撮満載のビジュアルはよかった)の劇場版『ウルトラマンティガ&ダイナ』、雨宮慶太監督の新作も準備中で、さらなる映像のビジュアル・イメージの広がりを期待したい。
【初出 朝日ソノラマ・宇宙船別冊『宇宙船 The Year Book 1998』1998年刊行】