日本特撮映画の父 円谷英二の人間研究

日本特撮映画の父
円谷英二の人間研究

戦前の『かぐや姫』(35/監督:田中喜次)、『兵六夢物語』(43/監督:青柳信雄)といった作品から円谷英二は独自のスタイルを持っていた。円谷特撮の魅力は、その画面のイメージを生んだ人間の存在、円谷英二という個人の気質や個性を感じさせるからなのだ。

 昨年は、『円谷英二の映像世界』の編集協力のため、戦前の円谷英二が特殊技術を担当した作品を、何本かみられた年であった。
 昭和15年の『燃ゆる大空』(監督:阿部豊)、『孫悟空』(監督:山本嘉次郎)、昭和17年の『南海の花束』(監督:阿部豊)、『ハワイ・マレー沖海戦』(監督:山本嘉次郎)、昭和18年の『兵六夢物語』、昭和19年の『加藤隼戦闘隊』(監督:山本嘉次郎)、『かくて神風は吹く』(監督:丸根賛太郎)と、戦前の円谷作品を代表する作品ばかりである。
 そして、円谷英二の演出の骨格がすでに戦前に確立しているのに気づき、驚いた一年でもあった。
 例えば、『兵六夢物語』の1シーン。エノケン演じる兵六は、街道で人を化かす妖怪を退治しようと、夜中に出かけていく。すると、大入道が目の前に現れるのだ。
●画面左に大入道の巨人。右にエノケンの合成シーン。視線もピタリとあっている。
●刀を抜き、巨人の足に突っ込んでいくエノケン。グニャリと曲がってしまう刀。この足は作り物の大道具だ。
●すると、上から巨大な手がおりてきて、エノケンのえり首をムンズとつかまえ、上に持ちあげる。手は巨大な作り物だ。
●巨人の手につかまれ、「離せ〜、離せ〜」と叫ぶエノケンをブラブラ揺らす巨人。これは、エノケンの格好をした人形を使用。
●巨大な手に掴まれたエノケン(作り物の手)。
●巨人は「おととい、来ーい!!」とブルンブルンと振り回し、ポーンと飛んでいくエノケン(人形)。「アーレー!!
 エノケンの人形を使ったり、合成、作り物の手足とその画面効果による技術の選択は、実に巧妙であった。また、狐の女の子である高峰秀子と、森の中で会うシーンも、高峰を木のうろの中に合成、小さな高峰とエノケンの会話シーンを作り、時に高峰がエノケンの手に乗るシーンでは、画面に右にエノケンの顔、左にエノケンの手の大道具に乗った高峰ごと合成し、よくグラついてしまう手の上の人間の合成シーンを安定した映像で作りあげていた。
『南海の花束』でも、嵐の中を飛ぶ九七式大艇の飛行ラインは、『地球防衛軍』(57/監督:本多猪四郎)のアルファ号そっくりなのだ。滞空感のある飛行機の見せ方で、明らかに円谷流のスタイルと構図が生まれているのだ。
 未見の作品だが、昭和10年のJOスタジオ作品で、円谷は『かぐや姫』の撮影を担当した。その時、どうしても京の都の中を牛車が進シーンがほしいということになり、ミニチュアの京のセットが作られた。では、牛車はどう撮影したのか!?
 牛の動きを12コマに分解して、12個の牛のミニチュアを作り、一コマ、一コマ、ミニチュアを置き換え、コマ撮りアニメーションで、進む牛車のシーンは撮影されたのである(このミニチュア制作を担当したのは、日本のアニメーションの先駆者のひとり、政岡憲三であった)。
 画面効果を第一として、演出を組み立てていく円谷特撮の発想がわかるだろうか!?
 円谷特撮にひかれるのは、そこに演出家、その画面のイメージを生んだ人間の存在を感じるからだ。
 メカをどう飛ばすのか、怪獣がどう暴れるのか、建物はどう壊れるのか、光線はどんな威力を持っているのか----そのイメージに近づけるべく、特撮スタッフは奮戦を続けるのだ。このページの写真をみてもらいたい。『キングコングの逆襲』(監督:本多猪四郎)のワンシーンを演技指導中の円谷英二特技監督だ。ドクター・フーのヘリにコングがどう行動するのか----66歳の演出家の心、マインド・パワーがみえてきませんか!?

リアルなだけでなく
イメージ喚起力が
必要なのである

 キングコング、ゴロザウルス、バラゴン、メカニコング、そして、ゴジラ……演出する円谷特技監督の頭の中にあるイメージは、俗にファンが“東宝名場面”と呼ぶ一連の名シーンの中に、見事に結実している。
『フランケンシュタイン対地底怪獣』のバラゴンが、白根山のヒュッテを襲い、キャンプ地を全滅させる合成シーン、フランケンシュタインに向け、身長の5倍近いジャンプをして襲いかかるバラゴンの襲撃シーン、それは“食べるために生きている”バラゴンの野獣振りを印象づけるために作られたシーンであった。
 その白根山のシーンで、高橋紀子たちが踊っているヒュッテをバラゴンが破壊しているシーンは、これも食べる小動物(人間)を隠れている穴から追い出しているようで、このヒュッテを壊すや、次々とバンガローを手で叩いて、空中へバラバラに砕け散らすなど、まるでネズミを痛ぶる猫をみているようなイメージもあり、まことに不気味なシーンである。
 ふと考えると、ゾッとするのだが、逃げ出した人間は、あのスリバチのような盆地の中、まるで嵐のように前へまわり込むバラゴンに退路をふさがれ、ひとり、ひとりとその爪の餌食になり、中央へ集められ、殺されていったのではないか……などと考えてしまうのだ。
 ヨダレを垂らすとか、血が出るとか、ヌメヌメ光るとか、そういう生物らしさではなく、演出と映像の総合イメージからくる生物らしさが、バラゴンに不気味な血の臭いを漂わせているのだ。と同時に、バラゴンがかわいいと思ってしまう自分が恐い。この怪獣の愛嬌というのは独特で、知恵を持つフランケンシュタインと戦うシーンで、演出が与えている動物らしさ、攻撃がうまくいかなかった時のアセリなどがデザイン以上に、愛嬌を生んでいるのだ。このあたりの演出の絶妙さは、ちょっと口では説明できない部分だ。
『キングコングの逆襲』でも、ビルをまっぷたつに突き抜け、ガレキの山に変えて登場するメカニコング、その東京タワーへ向け、キビキビと歩き、登っていくかにも機械というリズム感、行くところ死と破壊あるのみ、というその無情さと独特の電子音をメカニコングでみせた。“人間性の一切ない”メカ怪獣というイメージは、圧倒的であった。
 ゴロザウルスにしても、ぬいぐるみの極限ともいう恐竜デザイン、しっぽをバネに使って、キック攻撃をして襲いかかってくるアクション演出と、よくぞぬいぐるみでここまでやる----と、びっくりさせられてしまった。
 時間的に人形アニメを使えなかった円谷東宝特撮は、逆に、今できる中で、どこまでイメージを広げられるか、という指向を、明らかに持っていた。
 バラゴンのジャンプやゴロザウルスのキックがその典型だし、有川貞昌特技監督や操演の中代文雄らが奮戦したカマキラス、クモンガの動きなども、やはり、新しいイメージを追ってゆえのことだった、と思うのである。
 最近、ふと考えるのだが、特撮の中で、光線というのがいちばんおもしろいのも、それがどこまでいても現実ではみられない、イメージそのものの存在だからではないのか。SFファンならば、当然、知っていると思うが、レーザー光線は目でみえないし、光線砲が実用化しても、あんなバラエティなフォルムは、望みようがないのだ。
 ということは、光線のフォルム、タイミング、パワーのみせ方、あたると爆発するのか、燃えるのか、消えるのか、ネガになって消えるか、光って消えるのか、粉になって消えるのか----クリエーターの、演出家の、作画するアニメーターのイメージそのものが問われる映像なのである。
 円谷特撮の魅力は何なのか----不思議な自由さ、イメージの広がりがあるのである。爆発して天空へと登った炎の中から、アニメで炎がキングギドラへと変わっていく誕生シーン、モスラの成虫は繭が光学合成で発光して、“バーン!”と轟音をたてて割り、モスラの成虫が出てきたり、ラドンの影が地上を走るわ、円盤が宇宙を真上に飛ぶわ----不思議な映像イメージを生む集団だったのだ。
 円谷英二特技監督が亡くなって14年、まだ力を失わない映像の秘密は何なのか----それは、人間の生んだイメージの力だと思う。
 特撮の命は、リアルだけではなく、イメージ力ではないのか!?

【初出『月刊スターログ』1984年12月号 〈日本特撮秘史〜国産SF映画復興のために